前回の続きで、
キリスト教文化圏の基礎知識特集。
いよいよ、使徒ヨハネ(英語ではジョン)は、どういう人物なのか?
できるだけシンプルに書いてみます。
まず、ヨハネは兄のヤコブとともにガリラヤ湖で漁師をしてましたが、ナザレのイエスと出会い、その最初の弟子の一人になりました。十二使徒のうちもっとも年少でイエスが生きている間は十代(そのため、髭は無く、若者か女性的な容姿で描かれることが通例。 髪は金髪で衣装は朱色が使われることが多い)でしたが、ペトロ、兄弟ヤコブとともに特に地位の高い弟子とされています。
その証拠に、ゲッセマネにおける「イエス最後の祈り」など特に重要な場面で伴われているのは、特に地位の高い彼ら三人だけ。
『ルカによる福音書』においても、イエスから「最後の晩餐の準備」を仰せつかったのは、ペトロとヨハネの2人だけ。
聖書の記述に基づいてレオナルド・ダ・ヴィンチが描いたとされる「最後の晩餐」の名場面(上の写真、上段)で、キリストの右隣に座る人物は、やっぱり使徒ヨハネです。ダ・ヴィンチ以外が描いた「最後の晩餐」でも、キリストのすぐ隣でヨハネは特別な存在として描かれています。(映画化された小説『ダ・ヴィンチ・コード』では、マグダラのマリアとされ話題になりましたが、公式見解では、ヨハネ)。
さらに、『ヨハネによる福音書』には、イエスが十字架にかけられたときも弟子としてただ一人「愛する弟子」が十字架の下にいたと書かれているのは、ヨハネのこと。このためキリスト磔刑図では、昔から伝統的に、十字架にかけられたイエスの左右に、イエスの母マリアとヨハネを配する構図が存在しています。
他にもいろいろ理由はありますが、もし、「イエスの弟子の中でもっとも重要な弟子は誰か?」と聞かれたら、ヨハネと答えてオッケーなくらい重要な存在と言えるでしょう。
そうした背景もあり、『ヨハネによる福音書』の冒頭の:
John 1:1 is the first verse in the opening chapter of the Gospel of John. In the Douay–Rheims, King James, New International, and other versions of the Bible, the verse reads: In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.
はじめに言葉ありき。言葉は神と共にあり、言葉は神であった。
は、昔から大きく注目され、「存在」や「言葉」に関して様々な論争が繰り広げられてきました。
例えば、「言葉は何らかの事象を前提として人間によって作られたものであり、だからこそ意味を持つ」のだから、「はじめに言葉ありき」は間違ってるとの指摘も、
でも、最先端科学の量子力学の世界で
「二重スリット実験」っていう実験がありまして、物質の最小単位の電子レベルになると科学者は観測ができない、なぜなら観測しようとすると動きが変わっちゃう!(=思いや言葉が現実を変える→はじめに言葉ありき)・・・ってことが科学的に確認されているとも考えられたりしますし、いつになってもこの『ヨハネによる福音書』の冒頭の部分は、いろいろと興味深いのです。
以下、ご参考まで。
イエスが十字架にかけられたときも弟子としてただ一人「愛する弟子」が十字架の下にいたと書かれているのは、ヨハネのことこのためキリスト磔刑図では、昔から伝統的に、十字架にかけられたイエスの左右に、イエスの母マリアとヨハネを配する構図が存在
<キリスト教文化圏の基礎知識特集>
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